日常でも陸軍元帥と絡みがあるわけですが、どうしても他の友人と陸軍元帥との話題には付いていけないわけで、ある意味でここは「捌け口」になってしまっていますが、ご勘弁を。
さて、タイトルをご覧頂けば分かるとおり、今回は航空機事故と奇跡について考えました。
きっかけは僕がYouTubeにて、10年近く前の古いドキュメンタリー番組を発掘したからですが、その内容が航空機事故であるものもいくらか上がってしました。
ここでは、かつて発生した事故の中から、「奇跡の生還」となった事例のうちから、下の7つをピックアップ。
- ブリティッシュエアウェイズ9便エンジン故障事故(1982年)
- エアカナダ143便滑空事故(1983年)
- アロハ航空243便事故(1988年)
- ユナイテッド航空232便不時着事故(1989年)
- エールフランス358便着陸失敗事故(2005年)
- ジェットブルー航空292便緊急着陸事故(2005年)
- チャイナエアライン120便炎上事故(2007年)
- USエアウェイズ1549便不時着水事故(2009年)
①ブリティッシュエアウェイズ9便エンジン故障事故
↑謎の発光現象に遭遇した航空機(Wikipediaより)
1982年6月24日、ブリティッシュエアウェイズ9便は、ロンドン発ムンバイ(当時ボンベイ)・クアラルンプール・パース・メルボルン経由オークランド行きで、ボーイング747-200が使用されていました。2回目の給油地である、マレーシアの首都クアラルンプールを出発後、オーストラリアのパースへ向けて南東へ飛行中でした。
午後8時にクアラルンプールを離陸してから約1時間半後、突如コックピットの窓いっぱいに閃光が走りました。これは「セントエルモの火」と呼ばれる発光現象で、雷雲の中などでたまに見られる現象だが、この時レーダーには雲一つ映っていませんでした。
機内でも異変が。空調からは濃い煙が機内へ流れ込み、客室乗務員のみならず、一部の乗客もただ事ではないことに気付いていたようです。
機体は閃光に包まれ、エンジンからは炎が噴き出し始めます。機内で火災が発生しているのではないかと確認している最中、第4エンジンの出力が低下し始めました。この時点で機長は、現在地から最も近い、インドネシアの首都ジャカルタの空港へ緊急着陸することを決定しました。
ところが、空港に向かっている最中、第2エンジンも停止。間を置かずに、残りの第1・第3エンジンも停止しました。
4つある全エンジンが停止するという前代未聞の事態。パイロットたちは必死に再起動を試みますが、高度を維持できず、機体はインド洋に向けて降下を続けました。
絶望的な状況、機長も不時着水を覚悟し始め、トラブルが起こった高度37,000フィート(約11,300メートル)から11,400フィート(約3500メートル)までゆっくりと降下したとき、なんと第4エンジンが息を吹き返しました。その後も降下が続いた結果、他のエンジンも徐々に再始動し始め、ついには全エンジンが復活しました。
しかし再上昇してジャワ島の山脈を越える際に再びエンジンが1つ故障しました。また、コックピットのガラスが曇って見え、前方がよく見えません。さらに、着陸誘導のためにジャカルタの空港に設置されている2つの設備のうち1つが使用できない状態でした。
それでも機長は、霞んだ窓ガラスから外を見つつ、生きている1つの設備から発せられる電波に乗り、現地時間の午後10時半ごろ、ジャカルタの空港に無事着陸しました。乗員乗客263人全員が生還しました。
翌朝、機体の様子を見に行ったクルーたちは唖然としました。機体の外装が何かによって削ぎ落とされていたのです。
調査の結果は至って単純でした。ジャワ島のとある火山が噴火して、この航空機が飛んでいた高度まで噴煙が到達、エンジンが火山灰を吸い込んで根詰まりを起こしたことでエンジンが停止に至りました。また、機体外部を擦ったため、外装は削げ落ち、ガラスも削りました。
噴煙の中を飛んでいると、高温のエンジン内に飛び込んだ火山灰は溶けて、エンジン内に付着します。これが根詰まりの原因です。しかし、エンジンが停止した上に、火山灰の雲を抜けたため、エンジン内の温度が下がり、固まった火山灰が剥がれ落ちたことで、再起動することができました。
この事故の後、世界の火山の状況を監視するシステムが整い、以後このような事故は起きていません。
②エアカナダ143便滑空事故(1983年)
↑事故を起こした当該機。退役後保管されている(Wikipediaより)
1983年7月23日、エアカナダ143便は、モントリオール発オタワ経由エドモントン行きのカナダ国内線で、当時最新鋭のボーイング767-200が使用されていました。
カナダの首都オタワを離陸し、カナダ中部のオンタリオ州上空を飛行中、燃料圧力の異常を示す警告が立て続けに鳴り、異常事態を悟った機長は、オンタリオ州の西隣、マニトバ州最大の都市ウィニペグへ向かうことを決断します。
その後、左エンジンが停止。異常事態を管制官に伝えている最中、右エンジンも停止し、計器類が全て消え、地上へ向け降下を始めます。副機長と管制官が滑空できる距離を計算しましたが、その結果は、どちらもウィニペグには辿り着けないことを示していました。
機長は以前空軍に所属していた経歴があり、咄嗟にウィニペグよりも近いギムリーにある空軍基地への着陸を決めました。
しかし、今度はその空軍基地が近すぎました。高度が高すぎて、安全な着陸が見込まれません。機長はこれまでの経験から、機体の向きと傾きを互い違いにさせることで、速度を維持したまま急降下できることを思い出しました。これをフォワードスリップといって、グライダーなどで使う降下方法であり、一般のジェット機にはそれまで使われませんでした。
急降下した後、着陸のために車輪を下ろそうとしますが、エンジン停止に伴い電力供給が止まっているため、電力で下ろすことは出来ず、重力で下ろそうとしますが、前にせり出すタイプの前輪は、空気抵抗によって中途半端に出た状態で降りなくなってしまいました。
さらに悪条件が重なります。実はこれから着陸しようとしている空軍基地は、機長が空軍を退役後に廃止され、このときはカーレース場に改修されていました。この日もイベントで多くの自動車愛好家が集っていました。
それでももう引き返すことはできません。後輪から着地し、それと同時にフルブレーキをかけます。その勢いはタイヤがパンクするほどです。
前輪はほとんど機能していないため、結果として胴体着陸という結果になりましたが、それが逆に摩擦力を増やし、カーレース場にいた一般人を巻き込むこともなく停止しました。
胴体着陸したため、機首の部分から発煙し、僅かながら発火したようでした。2ヶ月前に同じエアカナダの航空機が火災を起こし、死者が出ていることを思い出した乗客はパニックになり、脱出の際に10名が負傷しました。火災はパイロットと、消火器を持っていた自動車愛好家のサポートによってすぐに消し止められました。結果、乗員乗客69人は全員生還しました。
この事故の原因も至って単純で、出発前にモントリオールの空港で燃料補給をする際、地上係員が計算方法を誤り、エドモントンへの飛行に必要な燃料のわずか5分の1しか補給していなかったことです。オタワまでなら何とか飛べましたが、そこから先の大陸横断にはどう考えても少なすぎる量でした。
以後、エアカナダを中心に、燃料計算の方法の徹底に努めますが、2001年8月23日には、カナダのトロント発ポルトガルのリスボン行きの航空機が、燃料の配管の整備ミスにより燃料漏れを起こし、大西洋上空で全エンジンが停止、小さな島の空軍基地に緊急着陸する事故も起きています。このような些細なミスで起こる事故というのは、なかなか減らないのが現状です。
③アロハ航空243便事故(1988年)
↑緊急着陸後に撮影された写真。機体前方の天井がない(Wikipediaより)
1988年4月28日、アロハ航空243便は、ハワイ島のヒロ国際空港から、オアフ島にあるハワイ諸島の玄関口 ホノルル国際空港への数十分間の短い離島フライトで、世界で最も多く使用されているボーイング737-200が使用されていました。
午後1時25分、定刻通りにヒロ国際空港を出発。そのわずか23分後、突然機体前方にできた亀裂が広がり、ファスナーを開けるように天井が剥がれ落ちます。
通路でサービスをしていた客室乗務員1人が機外へ吸い出されてしまいましたが、多くの乗客はシートベルトをしていたため無事でした。それでも高速で飛行している中、機体の破片が飛んでくる上、猛烈な風圧と低温という危険な状態にさらされてしまいました。
機長が後方を振り返ると、機体の下部が歪んでいたため、客室ではなく空が見えていたとのことです。すぐさま最寄のマウイ島にあるカフルイ空港への緊急着陸を決断しました。
ケーブルの損傷に伴い、左側のエンジンが停止してしまいましたが、油圧装置を含め、他は異常なく使えました。
機体に過度の負荷をかけないように操縦し、パイロットは見事、カフルイ空港への緊急着陸に成功しました。
この事故で、客室乗務員1人が機外へ吸い出され行方不明(後に死亡扱い)、機体の破片や強風、低温により乗客乗員65人が重軽傷を負いましたが、いつ墜落や空中分解してもおかしくない全損事故からの生還は、奇跡的と言われています。
④ユナイテッド航空232便不時着事故(1989年)
↑油圧系統損失のメカニズムの図(Wikipediaより)
1989年7月19日、ユナイテッド航空232便は、コロラド州デンバー発イリノイ州シカゴ経由ペンシルバニア州フィラデルフィア行きの幹線で、マクダネルダグラスDC-10が使用されていました。乗員乗客は296人です。
午後2時9分、デンバー国際空港(95年閉鎖、現行の空港とは異なる)を離陸し、高度37,000フィート(約11,300メートル)で水平飛行に移ります。
しかし、それから約1時間後の午後3時16分、機体後方にある第2エンジン内のファンブレードが金属疲労から破断し爆発、飛び散った破片が水平安定版の中にある3つの油圧システムのケーブルをすべて貫通、一瞬のうちに機体は操縦不能になってしまいました。
操縦桿でのコントロールが利かず、機体は不安定な状態を続けます。その時、偶然機内にいた一人の男性が、異常事態を察し名乗りを上げます。この男性は、同じユナイテッド航空で訓練教官をしている男性で、油圧システムが全滅するという最悪のケースに備えて、何度も訓練を積んでいたベテランでした。そのきっかけも、この事故の4年前に発生した日本航空123便墜落事故で、油圧システムが全滅し、520人が死亡したことでした。この男性は勇敢にも、コックピットへ向かい、操縦の手伝いをしようとします。しかし、油圧がない中でどうやって機体をコントロールするというのでしょうか?
この男性が一つの方法を提案します。それは、油圧システムを使った操縦桿による操縦ではなく、エンジンスロットルの出力を調整して、機体を操作するというものでした。第2エンジン以外の左右2つのエンジンは生きていたので、この提案を機長は受け入れました。
操縦不能の機体を、至難の業とも言えるエンジン出力のみのコントロールで、何とか安定させるようになり、管制塔との相談の末、右旋回した先にあるアイオワ州スーシティのスーゲートウェイ空港への緊急着陸を決断します。
万全の体制が整えられたスーゲートウェイ空港への最終の着陸態勢に入った232便は、コントロールが難しい中、真っ直ぐ滑走路へ突入しました。ところが着地直前、突如機体はバランスを崩し、右前につんのめる形で滑走路へ突っ込み、かなりのスピードで右主翼が地面に接触し発火、火の車のように回転しながらバラバラに分解、16時ちょうど頃、大破し爆発炎上しました。
Youtubeなどで公開されている動画をご覧いただければお分かりいただけると思いますが、まさに大車輪のように、炎を噴きながら滑走路上を機体が転がっていくような、絶望的な様子を呈しています。
しかし、主翼からの着地でエネルギーが分散されたこと、バラバラに分解したことで脱出口ができたこと、空港にいたレスキュー隊員による素早い救助活動で、乗員乗客296人中、半分以上の185人が生存しました。これもまた奇跡と呼ばれています。
それでも、残りの乗員乗客111人が死亡したことになり、再発防止のために油圧システムの分散や、金属疲労の早期発見などの対策が講じられました。
⑤エールフランス358便着陸失敗事故(2005年)
↑着陸に失敗後、炎上し、焼け焦げた機体(Wikipediaより)
2005年8月2日、エールフランス358便は、フランスの首都パリのシャルルドゴール国際空港発カナダの大都市トロント行きで、エアバスA340-300が使用されていました。
当日、トロント国際空港の周辺は雷雨となっていましたが、パイロットは着陸を強行。滑走路付近まで来ても高い高度のまま、上昇と下降を繰り返し、着陸したのは滑走路のほぼ中央付近でした。滑走路面が濡れていたというのもあり、機体は滑走路内で止まりきれず、オーバーランしてくぼ地に突っ込みました。
機体は大破し、漏れ出した燃料から出火します。さらに、脱出シューターが作動しないドアが2つもありました。
しかし、乗員乗客309人は全員生還しました。43人が負傷しましたが、大型機の炎上事故で死者が0だったのは奇跡です。
原因はパイロットのヒューマンエラーでした。パイロットのミスが乗員乗客309人の命を危険に晒しましたが、結果的に死者が0というのは、各メディアでも奇跡として賞せられました。
⑥ジェットブルー航空292便緊急着陸事故(2005年)
↑異常な向きを向いたままの前輪を着地させ、炎が上がる様子(Wikipediaより)
2005年9月21日、ジェットブルー航空292便は、カリフォルニア州の娯楽都市バーバンク発ニューヨーク J・F・ケネディ国際空港行きで、エアバスA320-200が使用されていました。ジェットブルー航空は、98年に設立されたばかりの、比較的歴史の浅いLCC(格安航空会社)でした。
午後3時17分、離陸してまもなく、車輪を収納しようとレバー操作しますが、収納できないトラブルが発生します。異常を察知したパイロットは、近くにあるロングビーチ空港の管制塔から、車輪の状態を目視で確認してもらいます。すると、前輪が直角に曲がったままであることが判明します。
機長は、近くにあり、比較的規模も大きいロサンゼルス国際空港への緊急着陸を決めました。しかし、まだ離陸して間もない状態で、燃料が多く残っていたため、上空で旋回し、燃料を消費します。また、着陸時に前輪への負担を軽くするために、前方にいた乗客やその手荷物を後方へ移動させる措置を取らせました。
こちらが着陸の瞬間の動画です。
火災発生に備えて消防隊が待機しているロサンゼルス国際空港に、292便はゆっくりと進入してきました。後輪が着地してから、なるべく前輪を浮かせたまま減速、前輪が接地した後、滑走路との摩擦で炎が上がりますが、機体に引火するようなことはなく、機体は滑走路の端まで数百メートルのところで停止しました。乗員乗客146人に、1人の死者・負傷者を出すこともなかったこの着陸も、まさにプロの技と賞賛されました。
⑦チャイナエアライン120便炎上事故(2007年)
↑炎上後、焼け爛れた機体(Wikipediaより)
2007年8月20日、チャイナエアライン120便は、台湾最大の都市台北発沖縄の那覇空港行きで、最新鋭のボーイング737-800が使用されていました。
午前10時27分、那覇空港に着陸後、41番スポットに向かう間、管制官と整備士が、それぞれ120便のエンジン付近から煙と燃料漏れを確認、パイロットに通達され、スポットに停止後、緊急脱出が急がれます。
午前10時32分、乗客が前後左右のドアから緊急脱出中に第2エンジンから出火。漏れた燃料と風向きの影響で第1エンジンにも火が回ります。
午前10時35分、乗客全員が脱出して十数秒後、コックピットの窓からパイロットが飛び降りようとしたとき、機体中央付近で爆発。パイロットが衝撃で落下した他、逃げていた客室乗務員1名が爆風で転倒、初期消火に当たっていた整備士が火傷するなど、3人が負傷しましたが、乗員乗客165人は全員生還しました。
事故後の緊急脱出に用いられる、いわゆる「90秒ルール」が守られ、奇跡的に全員無事に生還した事例です。
炎上する様子はホームビデオなどで撮影されていました。乗客が脱出し、漏れた燃料が何度も爆発、着陸を中止する航空機や、機体中央で折れる様子が捉えられています。
この事故の原因は、製造段階での欠陥による、ボルトの脱落が間接的な原因です。離着陸時に展開されるフラップと呼ばれる装置が動作する際、このボルトを押し、燃料タンクを突き抜けたため、燃料が漏れ、今回の炎上に至りました。
⑧USエアウェイズ1549便不時着水事故(2009年)
↑着水直後、翼の上に避難する乗客(Wikipediaより)
2009年1月15日、USエアウェイズ1549便は、ニューヨーク・ラガーディア空港発ノースカロライナ州最大の都市シャーロット経由東部ワシントン州最大の都市シアトル行きの大陸横断路線で、エアバスA320-200が使用されていました。
ラガーディア空港離陸直後、バードストライクのため両エンジンが停止するという致命的な事態に陥り、高度が下がり始めます。
管制塔や副機長は付近の空港への緊急着陸を打診しますが、高度が低すぎるとのことから断念、機長は目の前を流れるハドソン川への着水を決断します。
低高度すぎるとレーダーから機影が消失してしまうため、管制塔は付近を飛行中だったヘリコプターに状況を中継するよう頼みます。
機長はエンジンが再起動する見込みがないと確信し、乗客に衝撃防止姿勢をとるよう指示、川にかかる橋をぎりぎりでかわし、午後3時半頃、ハドソン川の流れに沿うように、滑らかに着水します。
機体後部が損傷し、機体が沈み始めたが、丁寧な着水と的確な指示により、乗客乗員155人は翼の上や脱出ボートに避難、一人の死者も出しませんでした。
付近に船着場などがあり、直ちに多くの船舶が救助に向かいました。1月のニューヨークは寒く、川の水は氷点下にもなります。冷たい水に晒された乗客は、これらの船舶によって命拾いしました。
バードストライクは、飛行機が鳥のいる場所を通過する限り、どうにもならない問題です。それでもこのような両エンジンの同時停止というのは異例で、奇跡の着水と言われています。
いかがでしたでしょうか?航空機事故に遭う確率は、毎日乗ったとしても400年に1回という概算値はあります。しかし、一度事故に遭遇してしまえば、生存率はそう高くはない航空機。それでもそれを飛ばしているのは優秀なパイロットたちであり、地上でも多くの係員などがサポートすることで、事故の被害を最小限に抑えることができます。
中には、本当に奇跡と言える事故もあります。起こるべくして起こるものではありませんが、それでも奇跡は起こります。
飛行機に乗るのが怖いと思う人もいるかと思います。これを見て、少しでも飛行機に乗ることに対する恐怖心が薄れたらと思います。
以上、海軍大将より長文失礼いたしました。